ダムに沈むこととなり廃止され藤橋村と合併 今はダムの名前になっているのは「『?』村」?

Q.ダムに沈むこととなり1984年(昭和59年)から離村 廃止され藤橋村と合併 現在の揖斐川町の区域にあったダムの名前になっているのは「『?』村」??

正解は…

「徳山村」でした!

解説

出題のねらい

かつて岐阜県揖斐郡に存在した「徳山村」。この村は1987年(昭和62年)3月末に藤橋村へと合併しているのですが、ただ合併したわけではありません。村のほぼすべてが水没することによる合併でした。現在は2008年(平成20年)に完成した「徳山ダム」の底に沈んでいます。

ここにダムが計画されたきっかけは、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風でした。揖斐川の流域でも大きな被害が出たことで、揖斐川の上流に洪水を調整できるような大きなダムの建設が求められたのです。さらに水力発電の必要性があった時代でもありました。

徳山村 とは

さらには高度経済成長によって、工業用水も求められるようになり、1971年(昭和46年)に徳山ダムの事業計画が発表されることになります。しかし、ひとつの村すべてが水没してしまうということは、村人全員に転居を求めるということ。反対運動は長期化します。

その後、充実した補償や生活再建策の提示によって、約1,500人が住んでいた徳山村の住民は次々と引っ越し、それぞれの集落にあった神社も移転先に合祀。1987年(昭和62年)に村としては無くなり、その2年後の1989年(平成元年)に水没するすべての世帯の引っ越しが完了します。

みんなの思い出から

2008年(平成20年)にダムは完成するのですが、水の需要の実態は計画時とかけ離れており「水余り」による水利権返上という状況に。ダム建設中の徳山村を舞台にした映画「ふるさと」が制作され、水没した場所にあった民家のいくかは移設復元され、そのうちのひとつは関市の中池公園にあります。

徳山ダムには、かつての村民が集える場所として整備された「徳山会館」という施設があり、公園もあってダムを眺めることができます。ダムについてとかつての徳山村についての展示コーナーがあるほか、食べながら放流をすることができる「徳山ダムカレー」を味わうこともできます。

そんなこともありましたね

徳山村を吸収した藤橋村も、2005年(平成17年)1月末には揖斐川町と合併して村としては消えてしまいました。縄文時代の遺跡も満足に調査されないままに沈んでしまったという話も。ひとつの村すべてがダムの底に沈んでいる…。故郷の地を二度と踏めないというのは、心情的につらいでしょうね。

いただいた解答&感想

みんなの思い出

・門入・戸入・塚(大字)
・今も字名としては残っている
・学生時代の同級生に村民の子孫がいた
・15歳になると徳山神社で元服式を行っていた
・沈む前に写真を撮りに行った
・沈む前の様子は見られなかったけどダムは見に行った
・湖底に村の集落が沈んでいると考えると…
・地元ガイドの説明付きで徳山会館の展示を見て回った
・名古屋市の水道へは結局まだ水は導かれていない
・仕事でよく行ったけど遠い 大垣からも遠い
・村の風景を撮って記録していたおばあちゃんカメラマン
・大高の森の中に「徳山」という出身者のステーキレストランがあった
・藤橋村内は…福井県境までCBCラジオが聞ける
・星を見るのに良い場所
・藤橋城の中にはプラネタリウムがある
・映画「ふるさと」
・縄文時代の遺跡が満足に調査されないまま沈んだ

楽しい不正解

・山口県徳山市(複数)
・徳山市も無くなって周南市になった(複数)
・周南村
・荘川村
・根尾村
・揖斐郡春日村
・合掌村
・八ッ場村
・八ッ墓村
・宇連村
・あの村
・アッチ村
・イタリア村
・ペンギン村(複数)
・千谷沢村 チャーザー村
・志村
・雛見沢村(複数)
・明治村
・すぎのこ村

思い出アルバム

関連情報

コメント

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