Jリーグ誕生時 最高年俸3億円で名古屋グランパスエイトに移籍し翌年引退した選手と言えば?

Q.Jリーグ誕生時 当時の最高年俸3億円で名古屋グランパスエイトに移籍しその翌年に現役を引退した選手と言えば??

正解は…

「ゲーリー・リネカー 選手」でした!

解説

出題のねらい

1993年(平成5年)5月15日に開幕した「Jリーグ」。初年度に参加した10チームのなかで、愛知県名古屋市をホームタウンとしたのが「名古屋グランパスエイト」でした。当初は不参加を表明したトヨタ自動車でしたが、様々な説得によって加盟することになったという経緯でした。

その際、補強の目玉として当時の最高年俸3億円(推定)で、名古屋グランパスエイトに移籍してきたのがゲーリー・リネカー選手でした。元イングランド代表のサッカー選手で、大きな期待がかけられました。本人も「トヨタなら知っている」と来日を決めたそうです。

ゲーリー・リネカー 選手 とは

しかし、ケガに見舞われてしまい、その翌年には現役を引退することとなりました。実は、もともとはディエゴ・マラドーナ選手の獲得がほぼ決まっていたのですが、白紙撤回となってしまったことで、クリーンなイメージのリネカー選手に白羽の矢がたったそうです。

20年間の現役生活のなかで、一度もレッドカードどころかイエローカードももらったことがなく、強烈なユーモアの持ち主で、自らの名前「ゲーリー」が日本語では「下痢」と聞こえることからそれにかけたダジャレを言うほどであったとのこと。

みんなの思い出から

現在は「名古屋グランパス」という呼称になっていますが、名古屋グランパスエイトの「エイト」は、名古屋市の市章である「丸に八」の八から来ているということになっていましたが、他にも意味があり、カタカナの「トヨタ」の総画数が8であることも由来だそうです。

実は「中日」も総画数は「8」ですし、ナゴヤ球場がカタカナなのも「ナゴヤ」の総画数が「8」であるからで、名古屋が「8」を特別な数字だと考えているということがよくわかります。なぜ呼称から「エイト」が外れたのかについては、11人のスポーツに合わない、8位近辺になりがちだったからという理由がありました。

そんなこともありましたね

確かに、当時はリネカー選手の加入によって「グランパス、Jリーク初年度優勝しちゃうんじゃない?」という声も、期待も大きかったですね。フェアプレーに徹したスーパーストライカー。ケガで残念な結果になってしまいましたが、立ち上がりの話題性としてはその威力を発揮しましたね。

いただいた解答&感想

みんなの思い出

・ゲーリー・ウィンストン・リネカー
・めちゃめちゃ期待されて来日
・生涯イエローカードゼロ
・元イングランド代表
・イケメン
・「トヨタなら知っている」と言って日本に来た
・ゴールまでパスを受けてこそ威力を発揮する選手
・しかし当時は中盤でボールを預けていた
・来日してケガに見舞われて
・入団時に狂喜
・強烈なユーモア持ち 自分の名前と下痢をかけたダジャレも
・名古屋駅でサインをもらった
・ジョルジーニョさんと一緒にいるところで2人のサインもらった
・「Jリーグ初年度優勝イケるんちゃう?」
・ピクシーと一緒に出た試合が4試合あるらしい
・公式ショップで買ったキャップが家にある
・リーグ戦で唯一得点した試合を観た
・フェアプレーに徹したスーパーストライカー
・誤審でオフサイドにされたゴール結構あった
・グランパス主要選手のなかで唯一現場で見ていない
・ストイコビッチ選手に記憶が持ってかれちゃう
・栄養ドリンクのCMを改装前のカシマスタジアムで撮っていた
・マラドーナ選手とと契約合意してたのに

楽しい不正解

・ストイコビッチ選手(多数)
・ピクシー
・ゲーリー・レーシッチ選手(多数)
・小倉隆史選手
・ジーコ選手
・ペレ選手
・アルシンド選手
・ギャラガー選手
・奥寺康彦選手
・エリベウトン選手
・ビネガー
・リアカー
・アルモンテ選手
・ケン・モッカ選手
・クロマティ選手
・ディステファーノ選手
・デービス選手

思い出アルバム

関連情報

あのころナゴヤ 管理人

このサイトは「あのころ」、主に平成・たまに昭和の名古屋圏、名古屋を中心とした愛知・三重・岐阜の東海3県の話題をお届けするサイトです。この企画をきっかけにテレビ番組が誕生しシリーズで放送されました。番組の立ち上げからスタッフとして参加、出題や出演者キャスティング、演出などにもかかわりました。

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